開校70周年記念  山 北 今 昔 物 語
◇ 平成24年10月30日(火)
   東日本大震災以降、防災の意識が高まり、高校では地域との連携防災訓練が行われるように
  なりました。異常気象も多く、集中豪雨や竜巻など自然災害も頻繁に耳にします。
   今年の9月2日(日)、本校では向原自治会との合同避難訓練として、自治会の全住民の避難と
  横浜気象台の台長による集中豪雨についての講演を実施しました。そこで、住民の方々が非常
  に危険視をしているのが、山並に多く点在する沢(さわ)からの鉄砲水やがけ崩れです。今回は昭
  和47年に、実際西丹沢一帯を襲った集中豪雨による大災害についてお話しします。
   山北町で発行されていた『岳陽新聞』(昭和47年7月25日)には次のように書かれています。
   「(7月)12日未明から早朝にかけて神奈川県の屋根丹沢山塊を中心に、452ミリの集中豪雨を記
  録した。この豪雨により西丹沢地域の箒沢(ほうきさわ)部落を始め、中川川(なかがわがわ)、玄
  倉(くろくら)川の各河川は未曽有の氾濫をみせ、各部落を抱く裏山のがけ崩れは、熊の爪でかき
  むしった如く杉、桧の山肌を無惨に崩壊せしめ、土砂流出は瞬時にして部落に襲いかかり、家屋
  を埋め、橋梁を流出し、道路を決壊し、危うく逃げた人々の眼前を流される家、生き埋めになった
  人などで平和な緑の自然郷西丹沢も、一瞬にして地獄図絵を展開した。」死者6、行方不明3、流
  出・埋没・全壊家屋65、山林・道路・橋梁の損壊甚大という惨状でした。
   ここに、一冊の冊子があります。表題は『美しい三保への試練』。山北町立三保中学校がまとめ
  た、その時の生徒の作文集です。眼前で濁流の中を沈んでゆく家族、一瞬にして崩壊する裏山と
  我が家。悲惨な体験が生徒の素直な目を通して語られています。つらい作文集ですが、表紙の扉
  裏には、災害の中でたった1本残った箒沢の箒杉(ほうきすぎ)の如く、たくましく、荒波を乗り越え
  て成長し、自らを鍛えよと結ばれています。
   山北高校のグランドは自衛隊、県警、新聞社のヘリ基地となり、現地との離着陸や情報収集の
  拠点として利用されました。白石沢青少年キャンプ場に逗子開成高校の生徒470人が孤立し、ヘ
  リ活動で救出され、本校生徒が救出劇に大声援を送ったことが前掲新聞に記載されています。残
  念なことに、本校では3年生男子1名が亡くなり、1名重傷、4名の家屋が全半壊、流出しました。
  これに対してPTAは、水害募金により44万円を贈りました。
   昭和44年に構想されていたダムは、昭和53年に、神奈川県の水がめとして完成し、223世帯の
  三保村が水没しました。その名に因み、名称が『酒匂ダム』から『三保ダム』に変更されました。
  このダムはロックフィルダムとしては異例の大規模な洪水吐(こうずいばき)を有する希少なダム
  ということです。

◇ 平成24年8月29日(水)
  山北高校 校章の変遷
   本校の校章は当初のものから2回改訂されました。
   最初の校章は昭和19年9月25日に制定されました。この年の4月に山北町立実科高等女学校
  から山北町立山北高等学校に改称したことを機に、図案を募り、専門家に審査を依頼し決定し
  ました(*1)。八咫の鏡(やたのかがみ)に富士山を配し、『北』の文字を図案化したものを入れ、
  中央に『高女』と書き入れました。八咫の鏡は皇位継承のしるしである三種の神器(さんしゅのじ
  んぎ)、つまり3つの宝物のうちの一つです。1回目の改訂は、県立高校に移管して2年後、昭和
  23年10月22日です。この時の校章が、戦中に山北町に疎開し、戦後も町の教育委員となってい
  た蕗谷虹児(ふきやこうじ)氏のデザインでした(*2)。円形で銀枠、黒地に白で橘の花を描き
  『山高』と書き入れてありました。
   橘の花弁は教養と品位を、形はあふれる若さと誇りを表し、「生徒ははつらつとして気品高く、
  かぐわしく麗しき若者たれ」との願いが込められています。花の中央にある雄しべと雌しべは、女
  性が髪をくしけずる櫛(くし)となっています。
   2回目の改訂は、昭和25年4月1日です。男女共学制が実施され、再び校章を改訂しました。黒
  地を茄子紺地(なすこんじ)に改め、『山高』の文字を除きました(*3)。
   先月の「山北今昔」で述べたように、蕗谷氏は山北町在住時に本校だけでなく、山北中学、吉田
  島農林(現:吉田島総合)高校の校章もデザインしました(*4、5)。
 
 
(4) 山北中学校 校章 (5) 吉田島総合高校 校章
   (旧吉田島農林高校)
山北中学校校章 吉田島農林高校校章
   山北中学校は、昭和25年に蕗谷氏がデザインした校旗の中央の図案を校章としました。ペン先
  は学生の本分である学問にはげむ姿をかたどり、両翼の広がりは、若い生徒たちが学習に、運動
  に、人間性の涵養にと、若鳥のように元気いっぱいに大空に向かって舞い上がり活躍することを表
  しています。
   吉田島総合高校は、平成22年に吉田島農林高校から総合学科となり現在に至っています。農林
  高校時代の昭和26年、蕗谷氏のデザインによる稲の花を模した形の校章が制定されました。花の
  中央には6本の雄しべと1本の雌しべがあり、雄しべは英知を、雌しべは希望の星を表します。3年
  間の学業を終え、社会や国家に貢献する人間になれと念願し作成されました。雄しべと雌しべは女
  性のかんざしのようにも見られます。
   櫛やかんざし、ペン先と蕗谷氏のデザインのモチーフが彼ならではの繊細さや叙情性を奏でてい
  ます。それは、彼の多くの作品群に相通ずるものです。改めて、これらの校章を眺めるとうっとりと
  優しい心持になります。山北町にまつわる校章物語でした。

◇ 平成24年7月12日(木)
   今回は本校の校歌の作詞および校章をデザインした蕗谷虹児(ふきやこうじ)氏についてお話し
  いたします。(→参考:「蕗谷虹児の世界−大正時代の流行画家の生涯」)
   そこはかとない憂いを含んだ大きな瞳と透き通るような肌の清楚な少女の挿絵(さしえ)。昭和
  20〜30年代の童話に彼の作品は多く使われています。彼は「子供たちに、未熟な果物を与えて
  はならないように、未熟ないやしい絵を与えてはならない」という考えから、作品には「静かなる動
  き」や「美しい線」「鮮麗な色彩」を求めたと、自らが手がけたアニメ映画『夢見童子』のパンフレッ
  トに書いています。彼の絵については本校文化祭で「創立70周年記念コーナー」として展示する
  予定です。ご期待ください。
   蕗谷氏(明治31〜昭和54)は画家であり、詩人でもありました。しかしその半生は苦労と悲しみ
  に満ちたものです。早くに母親を亡くし、一家離散と生活苦の中で、唯一慰めであった絵を志し、
  新潟から上京後、本格的に学びます。しかし、彼の前には常にさまざまな障害がたちはだかり、
  彼の人生は翻弄(ほんろう)されます。念願かなったパリ留学も、志半ばにして、家族の事情で帰
  郷を余儀なくされました。ようやく安定した生活が得られると、彼の才能は花開き一時期は売れっ
  子の画家として多くの本の挿絵や表紙を描き、詩人として童謡も作りました。「金襴緞子(きんらん
  どんす)の帯しめながら・・・・」で始まる「花嫁人形」は彼の代表作品です。
   では、彼と山北町との接点はどこでしょうか。太平洋戦争末期の昭和19年、彼は山北町に家族
  とともに疎開します。疎開先を山北町にしたことは、趣味の渓流釣りやアユ釣りが縁で、土地勘が
  あったからのようです。山北町で終戦を迎えますが、彼はこの地を気に入り、9年間を過ごします。
  戦後、再び彼への人気が高まり、数多くの作品を山北町から発信しました。彼の住んだ家は現存
  し、蕗谷氏から譲られた方が住んでいられます。山北駅から15分ほどのところで、「虹f」と壁にサ
  インがされています。
   さて、本校校歌の歌詞と校章のデザインですが、昭和23年、この疎開中に依頼され、作成しまし
  た。本校だけでなく、山北中学校、吉田島総合高校の校章もデザインしています。この3校の校章
  については、来月またお話ししたいと思います。

◇ 平成24年5月31日(木)
   今回は陸上競技で素晴らしい実績を遂げた磯崎公美氏と電話でお話ができましたので、当時の
  写真とともに掲載します。

    磯崎公美氏 本校玄関前にて   磯崎公美氏 国体で活躍
    1982年アジア大会(ニューデリー)
    に出場 優勝
1981年国体秋季大会(大津)に出場
少年A(女子)400m 優勝 54秒59(日本新)

   昭和56年夏、横浜開催のインターハイで日本新記録を更新した磯崎氏は卒業までに200M、
  400Mに計10回の日本新記録を樹立し、アジア大会では日本代表として出場、4個の金メダル
  と出場全種目に日本新、アジア新記録を出しました。
   彼女は白鴎中学校の出身で、小中学校では、バレーボールで活動していました。中学3年初
  夏、本校体育館で行われたバレーボールの練習試合の時に、陸上部顧問の吉田教諭の目に
  留まります。「素早い動きのトス」「軽やかなジャンプによるスパイク」「素晴らしいバネを垂直方
  向から水平方向に」吉田氏はこう述懐しています。(「創立50周年記念誌」)入学後、彼女は陸
  上を選ぶことになります。
   陸上部では、今以上に御殿場線の制約がある中で、朝練1時間半、放課後は18時台の電車
  に乗る生活で活動しました。アジア大会はインドのニューデリーで行われ、日本からは5人の高
  校生が参加しました。大変暑かったそうです。
   本校卒業後は、(株)ナイキジャパンに入社し、昭和61年ソウルアジア大会では400M銅メダ
  ルでした。28歳で現役を引退し、現在はナイキジャパンで、陸上関連の活動を継続しています。
   本校マラソン大会第20回(平成9年)の時に、磯崎公美杯を寄贈され、代々女子優勝者に授
  与されてきました。今年70周年記念誌に原稿を寄せていただきましたので、楽しみにしてくださ
  い。

            磯崎公美杯
                     磯崎公美杯

◇ 平成24年5月16日(水)
   山北高校は昭和17年に川村小学校を間借りするかたちで開校しました。学校が開校する時には、
  いきなり新校舎を大きく立てるのではなく、既存の学校を間借りする形で始まります。

   5月7日に開校式を挙行し、この日が開校記念日となりました。最初は山北町立山北実科高等女
  学校として文部省の認可を受けます。日本は前年に第2次世界大戦に突入していますので、幾多の
  困難の中での開校です。

   昭和19年に校章が制定されますが、この時のものは富士山をかたどったものでした。

   昭和21年にかねて念願であった町立から県立へと移管します。山北町に県立の施設ができると
  いうことは、町民の大きな期待を担った出来事でした。きっと未来への大きな夢と希望を感じたこと
  でしょう。

   県立への移管に伴って、新校舎の建設が求められ、国道246号と洒水の滝への入り口にあたる
  道路との角が用地として決定されました。ただし、グランドは校舎近くに平地がなく、70メートル下
  の県道に隔てられた所となりました。昭和21年といえば、戦後で物資が乏しい時期であり、これま
  た困難な中での建設であったと思われます。

   昭和23年に少女雑誌の挿絵等を手がけ、詩人でもある蕗谷虹児(ふきやこうじ)がデザインした
  校章に改められます。橘の花弁の中にある雄しべと雌しべが櫛の形をしており、女学校時代の名
  残を伝えています。

   昭和25年、時代の変化とともに男女共学となり、27年、校歌も蕗谷虹児(ふきやこうじ)の作詞で
  現在の形に作られました。

   昭和29年、全日本高校陸上の男子400メートルで2位入賞を果たし、山北高校の名を全国に馳
  せました。これを皮切りに、部活動の活躍は目覚ましく、陸上王国の異名をとるまでとなりました。

   昭和44年、校舎とグランドの落差70メートルは部活動において障害となり、また生徒数の増加
  により新校舎建設の声が高まります。そこで、現在の向原の地に移転することとなりますが、用
  地の買収は困難を極めます。もともと山北は平地が少なく水田は貴重であったのと、東名高速の
  建設で地価が高騰し、計画通りには進みませんでした。県だけでなく山北町としても尽力し、現在
  の校舎が建てられます。

   昭和56年、女子200メートル、400メートルで日本新記録を樹立し、アジア大会においても新記録
  および金メダル4個という快挙を成し遂げました。

   平成7年、定評のある部活動指導を基礎に、体育コースを設置し、平成16年には文武両道をめ
  ざしアドバンスクラスを導入し、進路指導に力を入れました。

   来年度、平成25年に体育コースはスポーツリーダーコースと名称を改め、新たな取り組みを展
  開する予定です。