神奈川県立山北高等学校 校歌      JASRAC許諾マーク
        作詞 蕗谷虹児    作曲 小松耕輔    JASRAC許諾番号
   E1212112539
山北高校校歌・・・クリックして拡大!


  1 富士のたかねをのきにみて
    清流酒匂を見はるかす
    高きにありてわが母校

  2 薫りゆかしきたちばなの
    花をかざしてのぼりくる
    文化の使徒をあつめたり 

  3 富士がかおるかたちばなか
    山北高校学びのにわは
    希望の花のさくところ
 

 山北高校を卒業して十分な時が過ぎても、校歌を聴くと高校時代
のあの時に戻れるように感じる。是非試聴してみてください。

    校歌二重唱♪     校歌合唱♪
 (※ 音源がテープなため多少ノイズがあることをご容赦ください。

○ 校歌(Jazzバージョン) 演奏:前田憲男とウィンドブレーカーズ

  本校創立70周年記念行事(平成24年11月15日)で収録されたものです。

○ 校歌(合唱バージョン) 合唱:洗足学園音楽大学声楽科の皆さん

  藤

   下の画像をクリックすると、校歌の伴奏が流れます
山北高校校歌碑



蕗谷虹児 ふきや こうじ(1898-1979) (→ 作品展示
 挿絵画家。新潟県生まれ。父は地方新聞の記者。その父から画才をゆずりうけ、
若くして上京し尾竹竹坡に日本画を学ぶ。一時父についてサハリンに渡る。21歳の
時再び上京竹久夢二と出会い、その紹介で1920(大正九)年 『少女画報』連載の
少女小説 「花物語」 (吉屋信子作)の挿絵を担当し、挿絵画家としてデビュー。以
後、『令女界』 『少女倶楽部』 などの表紙絵、挿絵のほか、抒情詩、小説も手がけ
た。その少女画は彼が幼時よりはぐくんできたこまやかな感性の織りなす精気に
みちた世界を仮託する容器だったようだ。中国で文化改造をこころざした作家魯迅
がその世界に感応し、かの地で『蕗谷虹児画集』を刊行した事実は興味ぶかい。ま
た、童謡「花嫁人形」は今でもひろく人々に親しまれている。終戦を疎開先の山北町
で迎え、1954年までの10年間を山北町で過ごした。

小松耕輔 こまつ こうすけ(1884-1966)
 作曲家。秋田県生まれ。1906(明治三十九)年東京音楽学校(現・東京芸大)本科
器楽部卒。1909年研究科修了後、学習院音楽教師(のち学習院大教授)。創作オペ
ラ運動を興し、1909年第一作 「羽衣」 (作詞作曲発表)。これが日本発の本格的創
作歌劇という。1920(大正九)年から三年間パリ国立音楽院に留学し、ダンディーら
に作曲を学ぶ。1927(昭和二)年合唱運動を推進するため国民音楽協会を設立、同
協会は戦後、日本合唱連盟に発展、会長や理事長をつとめた。また東京女高師(現
お茶の水女子大)教授や教育音楽協会会長などを歴任。作曲活動ではオペラ「霊鐘」
(1907年)ほかピアノ曲、歌曲、童謡など多数。著書 『現代フランス音楽』(1950年)他。



 神奈川県立山北高等学校 校章

       
山北高校校章

 (たちばなの花をモチーフに考案されました)

 本校は、霊峰富士を望み橘の香りも高い山北の地に女学校として創立された。
当初の校章は八咫の鏡の中に富士山をかたちどり、その頃には山北の山の字を
配したものだった。昭和23年、学制改革による高等学校移行に際して、本校顧問
格であった蕗谷虹児氏(画家・詩人)の考察を得て現在の橘の花と改められた。
 古来より、橘(たちばな)は厳寒野中にたって色象を発する花、馥郁たる香りが高
く立つ花、葉が高く立ち青み枯れることのない高貴な神木と貴ばれてきた。校章の
意味するところも花弁は教養と品位を、形状は溢れる若さと誇りを表現し、生徒は溌
刺として気品高く、麗しき若者たれとの願いがこめられている。


  校樹 橘の木

    校樹:橘(たちばな)の木
 
     校樹 : 橘(たちばな)の木



 校樹:橘の木がたくさんの実をつけました。(平成25年12月2日9時50分撮影)

 日本古来の柑橘でミカンに似ているが、酸味が強く生食用には向きません。
くれぐれもご注意ください。


  校樹 橘の木


 グラウンド利用の部活の生徒にとっては最も馴染みある風景です。
  山北高校グラウンドから富士山を望む


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